都営大江戸線 「光が丘駅」駅・街の歴史編

毎回、都心のさまざまな「駅」に焦点を当て、その周辺エリアの住みやすさや街の便利な情報をお届けしている当「タウン情報」ですが、今回はガラッと趣向を変えて、以前好評だった「おかわり企画」をお送りいたします。
その企画とは、今までに登場したエリアをさらに徹底解析し、アクセス環境や住まい環境、駅・街の歴史などの項目別に特集しちゃおう!というもの。
そして登場するのは、当タウン情報でもグングンその掲載回数を伸ばす「都営大江戸線」から、地味ながらも「始発」の恩恵がある「光が丘駅」です。
では、さっそく「駅の歩み」からスタートです!
光が丘駅のバス乗り場
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「光が丘駅」の歩み
「駅・街の歴史」という形では、以前の回でもご紹介していますが、今回はさらにこの「光が丘駅」が歩んできた歴史を掘り下げてご紹介していきましょう。
この駅が所属する「都営大江戸線」の他の駅と同じく、1991年(平成3年)に「都営12号線」として開業した「光が丘駅」。
路線自体が、都内の地下鉄の中でも最後発組となるため、その計画自体も「割と新しいのでは?」と思う方が多いでしょうが、実は1962年(昭和37年)にはすでに「第9号線」として、当タウン情報では登場回数の多い「都市交通審議会」で答申されていました。
しかし、実際の建設決定にこぎつけるまでには、ここから数多くの山や谷を越える必要があったのだそうです。(ようやく決定したのは1982年(昭和57年)のこと)
話は変わりますが、さすがにこの「都営大江戸線」は、前述の通り、都心の地下鉄でも最後発組であるため「現在進行系で延伸計画が持ち上がっている」という「今後の進化が期待できる」路線なのです。
というと「え?今の東京都の状況を考えると、新たに資金がかかる計画は無理なんじゃ?」という方がほとんどですが、実は例の「コロナ禍」以前となる2016年(平成28年)、こちらの「光が丘駅」から「大泉学園駅、新座市(埼玉県)、清瀬市(東京都)、所沢市(埼玉県)」というように、かなり広範囲に渡る延伸計画が披露されています。
それでも半信半疑となっている人は、当タウン情報に掲載されている、前回の「光が丘駅」の回を観てもらえれば、どれだけ「本気」なのかが伝わるのではないでしょうか?(実は、現在の「光が丘駅」にもすでに「延伸に向けた」設備が設置済みとなっているほどです!)
これまで「光が丘駅」が勤め上げてきた「都営大江戸線の終点」としての役割が、いつかなくなってしまうと思うと寂しい部分もあるかもしれませんが、その時を迎えた際は当タウン情報の記事も新しく執筆する必要があるでしょうね。
では、その時を待ちつつ、このセクションはここまでにしておきましょう。
実は元「アメリカ」? 帰ってきた「光が丘」 ~駅周辺の街の歴史~
さて、駅名に続いては地名としての「光が丘」にスポットを向けてみましょう。
セクションタイトルにもあるように、この「光が丘」の地は、太平洋戦争での日本の敗戦により、旧連合国軍に接収されることとなってしまいました。(それ以前は旧日本軍の「成増飛行場(現光が丘の三丁目〜五丁目と七丁目にあたる)」として軍事利用されていました)
敗戦から2年後の1947年(昭和22年)、旧連合国軍の中でも中心的な存在であった「アメリカ軍(陸軍)」の家族宿舎が建設されることとなり、第18大アメリカ大統領である「ユリシーズ・シンプソン・グラント」から名前を取って「グラントハイツ」と名付けられたのですが、よくある間違いとして「グランドハイツ」と呼ばれることがありました。(ただし、正式名称が「グランドハイツ」となっていたこともあるので、完全なる間違いとはいえない)
その後、この「グランドハイツ」は、アメリカ陸軍から空軍へ管理を引き継がれ、同34空軍の「家族宿舎」として引き続き利用されます。(ただし、正確には1958年(昭和32年)に管理が空軍へ引き継がれる前(陸軍管理時代)から、アメリカ34空軍の家族宿舎として使用されていた)
ショッピングモール「光が丘IMA」
1950年代には数えるほどであった「一部用地・建物の接収解除」ですが、1960年代に入るとそのペースが格段に上がり、1964年(昭和9年)には当時の「練馬区長」から「東京都知事」へ「グラントハイツ開放」を要請する事態へとつながっていきます。
この流れは1970年代に入るとさらに加速し、とうとう1971年(昭和46年)には、アメリカ側は「日米安全保障協議委員会」の席上で「グラントハイツ」の全面返還に合意、返還期限は「1974年3月」とされましたが、実際には期限の前年となる1972年(昭和48年)9月に全ての返還が完了しました。
セクションタイトルにもあるように、日本に返還されてから「光が丘」が成立した、と認識している人も多いでしょう。
しかし、まだ「グラントハイツ」が使用中であった1969年(昭和44年)、それまで「田柄町の一・二丁目、高松町の一・二丁目の一部、旭町の一部」を構成していた地域が、ごぞんじ「住居表示」によって「光が丘」は成立していたので、「実は『光が丘』になってから返還された」というオチがあるんですね。
「グラントハイツ」以前の「光が丘」とは? ~駅周辺の街の歴史②~
さて、時系列的には前後してしまいますが、このセクションではタイトルにもあるように「グラントハイツ以前の光が丘」について探っていきましょう!
早速その出自についてお話していくと、このエリアを含んだ周辺の広大な地域は、なんと江戸時代の最中にすでに「武蔵国豊島郡上練馬村」として広く認知されていました。(「上練馬村」という村名に限っていえば、1644年(正保年間)に成立したともいわれています)
この「上練馬村」は、明治に入ってすぐとなる1869年(明治2年)に、当時の「品川県」に編入されることとなるのですが、直後の1872年(明治4年)には早くも「東京府」に編入し直され、なんと「新宿口第22区」の所属へと変更されます。
光が丘郵便局
現在の地名から考えると「品川から新宿へ再編入された」という事態はまず想像できないかもしれませんが、この当時はまだ「藩体制」からの移行が十分に浸透していなかったので、一般庶民からすれば「なんのこっちゃ?」という状態だったでしょう。(この辺りをきちんと把握しているのは、国民の中でもごくごく一部であったことが容易に想像できますね)
その後、明治、大正と時代を駆け抜けた「上練馬村」は、その成立から数えて4つ目の時代である「昭和」に入った1932年(昭和7年)の「板橋区」成立を期に6つの町へと分割されます。(前述の「住居表示」にも登場する地名を含んだ「練馬田柄町・練馬高松町」はこの時に分割されました)
そしてこれらの6町は、1947年(昭和22年)の「練馬区独立」によって冠となる「練馬」を取り外したのですが、前セクションをよく見ると分かるように「すでにグラントハイツとして接収済み(建設は4月から始まっていた)」であったわけです。
こんな「数奇な運命」をたどってきたエリア、他にはなかなかありませんよね?
今後の「光が丘」が歩む道とは?
最後のセクションは、なかなか複雑な経緯のあった「光が丘」の今後を、この記事をまとめつつ一緒に考えてみましょう。
以前からその住みやすさで、練馬区内でも高い人気を誇っていた「光が丘」ですが、最初のセクションにもあった通り、今後その「住みやすさ」に大きく影響を与えるような「変化」が起きる可能性を秘めています。
しかし、その「変化」が目に見えて来るまでには、5年から10年以上の非常に長い時間がかかるはず。(現在もその影響が色濃く残る「コロナ禍」も要因のひとつです)
とはいえ、現時点でも非常に魅力的なメリットを多く備えている「光が丘」ですので、例え大切な「住まいの購入」であったとしても、あまりじっくり時間をかけてしまうと「良い物件と巡り合うタイミングを逃す」という事態にもなりかねませんので、気になっている方はお気軽に当店までご相談ください。
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「練馬区」の中でもかなり独特な道を歩んできた「光が丘駅」エリアにご興味をお持ちの方は、ぜひお気軽におうち不動産までご相談ください。
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光が丘駅周辺地図
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光が丘駅周辺の学区域情報
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kosodatekyoiku/kyoiku/shochu/gakkuiki/index.html
(練馬区役所ホームページ)
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光が丘で利用できる路線
都営大江戸線 「光が丘駅」
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