西武池袋線「江古田駅」駅・街の歴史編
毎回、都心のさまざまな「駅」に焦点を当て、その周辺エリアの住みやすさや街の便利な情報をお届けしている当「タウン情報」ですが、今回はガラッと趣向を変えて、以前好評だった「おかわり企画」をお送りいたします。
その企画とは、今までに登場したエリアをさらに徹底解析し、アクセス環境や住まい環境、駅・街の歴史などの項目別に特集しちゃおう!というもの。
そして登場するのは、当タウン情報において安定した登場回数を誇る「西武池袋線」より、久々の出番となる「江古田駅」の「駅・街の歴史」を中心にお送りします。
では、さっそく「江古田駅の歩み」からスタートです!
江古田駅南口
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「江古田駅」の歩み
「駅・街の歴史」という形では、以前の回でもご紹介していますが、今回はさらに「江古田駅」が歩んできた歴史を掘り下げてご紹介していきましょう。
この「江古田駅」が属している「西武池袋線」は、その前身の時期から見るとかなり長い歴史を持っており、第1陣ではないものの、この「江古田駅」に関してもその開業は1923年(大正12年)という古参駅のひとつです。(路線開業から8年後のデビューとなる)
しかも、この開業時には「池袋―所沢」間が「電化」されていますので、この「江古田駅」は当時の駅としては珍しい「開業時から電化済み」の駅でありました。
今でこそ「24時間眠らない繁華街」のイメージが強い「池袋」ですが、この時代(大正後期)はまだまだ近代化を目指していた頃でありました。(池袋が急速に発展していくのは「関東大震災」以降のこと)
ですので、この「開業時から電化済み」というのは当時で言えば「最先端」の路線であった、ともいえるわけです。
しかし、実は、この「江古田駅」のデビュー前年となる1922年(大正11年)、この駅は「とある学校の生徒専用」ともいえる役目を担っていたそうです。
一体どういうことなのかというと、現在の「西武鉄道」の前身である「武蔵野鉄道」の株主であった「根津嘉一郎」氏が設立した「(旧制)武蔵高等学校」用の「仮停留所」として、すでに開業していた経緯があったそうです。(当時は通学時となる朝夕のみの停車・現在の江古田駅とは異なる場所に存在した)
こういうエピソードを聞くと、その後「学生街」としての顔を持つこととなった「江古田」のイメージが、少々変わってしまいそうですよね。
とはいえ、この「武蔵高等学校用仮停留所」時代はわずか一年足らずの出来事であり、現在の「江古田駅」とは違う場所にあったことからも分かるように「正式な開業」とはみなされていなかったようですので、先程のイメージを覆すのはやめておきましょう。(その後、武蔵野鉄道が買収されていることもあり「黒歴史」となっている感もありますので)
このように、現在の「西武鉄道」と各路線は、昭和初期辺りに「大きく動いた」時期があり、それぞれにこの紙面では語り尽くせないほどのエピソードがありますので、気になった方はご自身でも色々調べてみると良いでしょうね。
というわけで、この「西武池袋線」と「江古田駅」については、今後また別角度からお話することもありますので、今回は一旦ここまでにしておきましょう。
江古田駅北口
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中野区?練馬区?いえいえ、実は「旭丘」です ~駅周辺の街の歴史~
さて、今回取り上げているのは、まぎれもなく「西武池袋線江古田駅」なのですが、実は駅のある場所は「練馬区旭丘一丁目」となっています。
こちらではそんな「旭丘」の歴史とともに、駅名となっている「江古田」についてもエピソードを取り上げていきましょう。
そもそもこの地は「武蔵国豊島郡上板橋村」に含まれた「字」であり、正式には「上板橋村字江古田」として認識されていました。
この「江古田」という名称は、この当時「多摩郡江古田村」からの「分村」であったことの確たる証拠となっています。(そしてこの「多摩郡江古田村」が現在の「中野区江古田」のルーツとなっています)
この当時、農地はそれぞれ「村単位」で管理されており、新たに開梱して作った農地のことを「新田」と呼んで、一部をそちらに移動させる「分村」を行っていました。
カンの良い方ならお気づきでしょうが、「上板橋村」側の「江古田」は、一時期「江古田新田」と呼ばれていた、といえばこのカラクリに気がつくのではないでしょうか?
つまり、便宜上現在の地名で表すと、このエリアは「中野区江古田」の人々が開梱した「新田」であった、というわけです。
こちらではほんの「さわり」だけになってしまいましたが、次のセクションでは「旭丘」に至るまでの流れをご紹介していきましょう。
大江戸線新江古田駅
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そして「旭丘」へ ~駅周辺の街の歴史②~
こうして「上板橋村字江古田」となったこの地でしたが、1871年(明治4年)には当時の「浦和県(埼玉県のルーツ)」から「東京府」に編入することとなります。
さらに時代が下った1932年(昭和7年)には、「板橋区」の成立に合わせ「江古田町」として新たなスタートを切ります。
ただ、先程も登場していた「中野区江古田」との混同はこの地域において常に頭の痛い問題でした。
そんなこの地域に転機が訪れたのは、太平洋戦争後となる1947年(昭和22年)のこと。
この年、旧「板橋区」からの「分区」により新たに「練馬区」が発足した際、それ以前に移管していた「警察・行政」の管轄範囲の関係上、「小竹向原駅」の駅名にも使用されている「小竹町」とこの「江古田町」が、共に「練馬区」入りを果たします。
旧「上板橋村」に属する地域でありながら、「練馬区」に加わることとなった「江古田町」は、それまで悩まされ続けていた「地名混同問題」に終止符を打つべく1960年(昭和35年)に「住民投票」を決行、その結果を受けて「町内にある小学校の名前」にヒントを得た「旭丘」に町名を変更しました。(後に旧「栄町」の一部を編入して現在の「旭丘一丁目・二丁目」となった)
とはいえ、すでに定着していた駅名を変えるまでには至らず、現在の「駅名と地域名が異なる」状況が整った、というわけなのです。
このように「地名」と「駅名」は、探ってみると面白いエピソードに事欠きませんので、興味のある方は不要不急の外出を避ける意味でも、この「調べる楽しさ」をオススメしておきます!
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今後の「江古田(旭丘)」が歩む道とは?
最後のセクションは、なかなか複雑な経緯のある「江古田(旭丘)」の今後を、この記事をまとめつつ一緒に考えてみましょう。
古くから「学生街」のイメージを持ち、リーズナブルで美味しい飲食店や一風変わったスタイルを売りにしているお店など、独特な雰囲気を持っていた「江古田駅」周辺エリア。
しかし、そのような「エリアの良さ」に大ダメージを与えるような「コロナ禍」を迎え、地元の人々やお店には「今後も生き残っていくための変化」が求められ始めています。
そして、そのような「流れ」は、この地に存在する「住まい・物件」にも「何らかの変化」を促していくことでしょう。
その変化がこのエリアにとって「吉となる凶となるか」は、まだまだ先にならないとわかりませんが、覚えておいていただきたいのは「その部分を踏まえても、このエリアの住まいには他では味わえない魅力がある」という点です。
決して「万人受け」するような環境ではありませんが、好きな人にとっては「このエリアにこだわりたい」というモチベーションになるのが、この「独特の魅力」なのではないでしょうか?
もし、あなたがこのエリアに対してそのような愛着を持っているならば、まずは当店までお気軽にご相談ください。当店では、お客様の「エリアに対する愛着」も踏まえた上で、最高のサポートをさせていただきます。
独特な魅力が光る!「江古田駅」エリア。
機会があればぜひとも住んでみてはいかがでしょうか?
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江古田駅周辺地図
江古田駅周辺の学区情報
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kosodatekyoiku/kyoiku/shochu/gakkuiki/index.html
(練馬区役所ホームページ)
江古田で利用できる路線
① 西武池袋線「江古田駅」 ※「池袋」駅まで約7分
② 都営大江戸線「新江古田駅」 ※「新宿」駅まで14分
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